• 事業者情報
  • パンフレットダウンロード
  • まんがで読む東白川
  • つちのこ街道

お寺の無い村、東白川。   東白川村は「お寺のない村」です。「お寺がない」とは、建造物としての寺院が無いだけではなく、寺に関するもの、言い換えれば仏教に関するもの(信仰、風習、仏壇・仏塔・石仏など)がほとんど無いことを指します。つまり、東白川村には生きた宗教としての伝統仏教そのものがほとんど残っていないのです。もちろん葬儀は神式、お寺参りなどの風習もありません。

なぜ、こうなったのでしょうか。江戸時代末期までは、東白川村でも檀家制度に守られた寺院が存在し、すべての家が寺の檀家となっていました。それが無くなってしまったのは、いわゆる「廃仏毀釈運動」によるものです。

檀家制度とは、行政権の一部を寺院に与えて住民の管理を行うという、いわば、寺院に特権を与えるものでした。そのため特権を悪用する僧侶の横暴が目立つようになり、全国各地の檀家の不満が江戸時代を通じて次第に高まって来ました。明治初期に政府が発した神仏分離令を発端とし、「廃仏毀釈運動」が全国的に広まったのも時代の趨勢といえるかもしれません。仏教の信仰を捨て仏教施設を壊してしまおうという運動が、廃仏毀釈運動です。

現在の東白川村を支配していた美濃苗木藩は、平田国学に心酔した青山直道大参事を中心に徹底した廃仏毀釈政策を断行しました。遠山友禄藩知事(元の藩主)も積極的に領内各地を巡視・督励して回りました。結果、藩内の寺院はすべて廃寺の上打ち壊し又はほかの用途に転用となり、東白川村に唯一あった常楽寺も廃寺になりました。常楽寺の建物は、後に尋常小学校校舎に、更には、東白川村役場庁舎としてほんの十数年前まで使われるという運命を辿りました。

廃藩置県が行われた明治4年頃には廃仏毀釈運動は終息し、特権喪失の危機を乗り切った伝統仏教は、近代化・民営化されながら徐々に復活を果たします。しかし、強硬に廃仏毀釈運動を推し進めた旧苗木藩地域のうち、東白川村だけは寺院が再建されることなく、村内に5つの神社を擁する全国で唯一「お寺のない村」となり、現在に至っています。

もっと詳しく

「東白川村の廃仏毀釈」
http://www.vill.higashishirakawa.gifu.jp/archive/haibutu/index.html

四つ割りの南無阿弥陀仏碑

四つ割りの南無阿弥陀仏碑 四つ割りの阿弥陀仏碑

常楽寺の山門には「南無阿弥陀佛」と刻まれた石碑(高さ約2.5m)が立っていましたが、廃仏毀釈運動の際、苗木藩役人に取り壊しを命ぜられ、製作者(信州高遠の石工  伝蔵)自身の手により縦に四つ割にされたうえ、近くの畑に埋め込まれました。

時代が下り、昭和10年、疫病退散などを祈願する有志の手により掘り出され、役場前に再建・供養されました。廃仏毀釈の激しさを物語る、東白川村に残る数少ない遺跡です。

神の村

東白川村は、明治時代の廃仏毀釈により「お寺のない村」となり、現在に至っています。村民は全て神道のため、村内には5つの神社が存在し氏子により管理されています。いずれも山中に厳かに鎮座し、パワースポットとなっています。

東白川の五つの神社

神田神社かんだじんじゃ 神田神社
東白川村神土平にある美濃国賀茂郡式内社の神社。
毎年9月下旬に開催される例大祭では、祭事のほか、獅子舞、御神酒の振る舞いなどが行なわれる。かつては山車の引き回しが行なわれていたが、1950年代に人口減により維持が困難となり長らく中止されていた。2008年(平成20年)に新たに山車が製作され、引き回しが復活した。
例大祭では地元産の米で作った「にごり酒」が奉納され、来場者に振る舞われる。
神明神社しんめいじんじゃ 神明神社
東白川村神土親田の神明山に鎮座する神社。
寛永2年(1625)創建。
越原神社おっぱらじんじゃ 越原神社
東白川村越原日向に鎮座する神社。
牛頭天王(ごずてんのう)を祀ったのがはじまりというが創建については詳らかではない。鳥居の前を清流白川が流れる。
子護神社こまもりじんじゃ 子護神社
東白川村越原大明神に鎮座する神社。
往昔からこの地に伝わる銭神岩の伝説によるものといわれている。
五加神社ごかじんじゃ 五加神社
東白川村五加柏本に鎮座する神社。
昭和35年11月に従来の柏本神社に石戸神社(いわど)、産霊神社(うぶたま)、十九折山神社(つづらやま)、鎮火神社(ほしずめ)を吸収合併して名称を改めた。
裾神様すそかみさま 裾神様
腰から下の病や子宝によいといういわれの神様。
地域の人々からは、産霊(むすび)の神様として奉られている。

ページの先頭へ戻る